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ソーカル事件に関しての断片的覚え書き 

なにかと今後必要になる気がするのでちょっとメモ。

ネット上で参考になるのは日本語版「知の欺瞞」の訳者である堀茂樹先生の「 きみはソーカル事件を知っているか?」とソーカル事件の仕掛人(?)本人が書いたものを田崎晴明先生が日本語に翻訳なさった「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」あたりでしょうか。

あとまとめサイト的なものとしては黒木玄先生の「ソーカル事件と『知的詐欺』以後の論争」があります。
で、まずソーカルとブリクモンの「『知』の欺瞞」が誰を批判しているのか、ちょっと目次をメモってみます。

1.はじめに
2.ラカン
3.クリスティヴァ
4.第一の間奏(科学哲学における認識的相対主義)
5.イリガライ
6.ラトゥール
7.第二の間奏(カオスと「ポストモダン科学」)
8.ボードリヤール
9.ドゥルーズとガタリ
10.ヴィリリオ
11.ゲーデルの定理と集合論
12. エピローグ

このうちクリスティヴァに関しては次のように書いてあります。

クリスティヴァの初期の著作は大いに数学(の濫用)に依存していたが、すでに二〇年以上前に彼女はそういう路線を放棄している。それでも、われわれが本書でそれらを取り上げるのは、彼女の初期の作品がある種の知性のあり方の典型的な症例を示していると考えるからである。(p.11 )

そして彼女が集合論をはじめとする様々な用語を説明もなく正当化もせず(しかもかなり間違えながら)使用していることを指摘した上で最後にこうまとめています。

クリスティヴァは、使っている用語の正確な意味をいつも理解しているわけではないことは明白だが、一般的にいって、持ち出してくる数学についての漠然としたアイディアはもっている。しかし、彼女のテクストの真の問題点は、様々な数学の概念が、言語学、文芸批評、政治哲学、精神分析学といった彼女が研究しているはずの分野と適切に関係していることを示すための努力がまったくみられないことだ。われわれの意見では、こうなるのはそのような適切な関係などないという優れた理由のためなのだ。ラカンに比べればクリスティヴァの文章はまだ意味が通じる。だが、学識の皮相性という点では、クリスティヴァはラカンをしのいでさえいる。(p.68)

キッツイこというなー(汗)。人ごとじゃないよ(涙)。この章ではクリスティヴァが詩的言語を「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しながら同時に「メタファーとしてでしかない」ともしていることを問題視してます。矛盾というか漠然とした目標設定であると。そして集合論をわかってない上に、なんで集合論が詩的言語の構造を説明するのに適切なのかも一切語ってないと。

この批判に対しては「メタファー!」と叫べばそれでも逃げられそうですけど、そうさせないためにちゃんと「はじめに」のところに「メタファーの役割」という項目があります。で、そこにはこんな風に書いてあります。

われわれの引用した部分は、正確な論理的な議論としてではなく、メタファー(比喩)として読まなくてはならないというわけである。確かに、「科学」が疑いようもなくメタファーとして用いられている場合はある。だが、このようなメタファーの目的はいったい何なのか?考えてみれば、メタファーは馴染みのない概念を馴染み深い概念と関連させることで説明するために使うものであって、決して逆の状況では使わない。

うーんと、たとえばクリスティヴァがよくわかってもいない集合論を比喩的に用いたのは、次のように考えれば「馴染みのない概念を馴染み深い概念と関連させることで説明するため」だったと言えないことはないんじゃないかな。

☆「集合論」→一般の読者には知られていないかもしれないが、少なくとも数学者にはよく知られている。
☆「漠然としたアイディア」→クリスティヴァの頭の中にしかないので、誰にとっても未知である。

故に両者を比較した場合、相対的には「集合論」の方が「馴染み深い概念」である...「集合論」という一般には馴染みの無い概念もクリスティヴァの脳内にある「漠然としたアイディア」と比較すれば、少なくとも知られている可能性があり、(数学を頑張れば)知ることが不可能ではない分だけ馴染み深い概念とは言える...だから通常のメタファーとなんら変わらない...。

く、苦しい。まあこんな擁護をしてもあんまり意味はないんだろうな。擁護になってないし。

可能な限り使用した概念はきちんと把握しておくべきだし、把握できないなら使うべきじゃないし、その利用に際してはなぜそれが使用できるのか明確に説明すべきだとは思う。クリスティヴァの説明を鵜呑みにしていた人々は反省せねばならないでしょう。それには同意。

それはそうとして...

冒頭に紹介した堀先生はこの著作をどういっているのかちょっと見てみますか。そもそもソーカルが投稿した偽論文はどういうものだったのか。

内容はというと、世間で大雑把にポスト・モダン思想と見做されている哲学者や精神分析家の文献、とりわけカルチュラル・スタディーズを実践する米国知識人のあいだで絶大なプレステージを有するフランス人現代思想家ラカン、ジル・ドゥルーズ、リオタール等の文献からの引用をふんだんに散りばめつつ、自然科学の領域においてまで客観的な外界や普遍的な真実の存在を否定し、認識論上のラディカルな相対主義を標傍するものだった。曰く、「物理学的『現実』は社会的『現実』と同様に、基本的に、言語学的・社会的構築物である」ノノ。

「自然科学の領域においてまで客観的な外界や普遍的な真実の存在を否定し、認識論上のラディカルな相対主義を標傍するものだった」とありますね。「認識上のラディカルな相対主義」っていってます。そしてこの著作そのものについてはこう書いてます。

さて、米国人アラン・ソーカルとベルギー人ジャン・ブリックモン、この二人の物理学者の共著の書『知的ぺてん』は、科学的な知を「叙述」に還元したり、「社会的構築」物と見做したりする認識論上の相対主義を批判しつつ、米国で優勢なポスト・モダニズムの言説の中で格別の敬意をもって引用されることの多い哲学者たちムムほかでもない1960年代フランス思想の代表者たちムムによる数学・物理学概念の濫用がいかに目に余るものであるかを示そうとした本である。

「科学的な知を『叙述』に還元したり、『社会的構築』物と見做したりする認識論上の相対主義を批判し」ているみたいですね。やっぱりここにも「認識論上の相対主義」が出てきます。

またソーカル自身がこの事件について述べた文章にもこんな風な記述があります。

では、私が「馬鹿馬鹿しい」というのは、正確にはどういうことだろうか?ごく大ざっぱに二つの範疇に分類してみよう。一つ目は、無意味な主張や馬鹿げた意見、知ったかぶり、まがい物の教養をひけらかすことなどである。二つ目は、ずさんなものの考え方(sloppy thinking)と薄っぺらい哲学で、これら二つが軽薄な相対主義の形をとって同時に現れることが(いつもではないが)実に多い。

言及した思想家たちが「知ったかぶり、まがい物の教養」を「sloppy thinking」で用いてることを批判しているわけですが、その現れ方は「軽薄な相対主義の形」でだといってます。

逆に言えば思想家たちは、この「軽薄な相対主義」に基づく主張をするために数学・物理学の概念を濫用しているということですね。それが適性であれば問題はないのでしょうが、間違いだらけの濫用であると。

この相対主義については「『知』の欺瞞」4章に次のような記述があります。

われわれが「相対主義」という言葉で指すのは、大雑把にいうと、ある命題が真であるか偽であるかは、個人や社会集団に依存して決まるとする哲学すべてのことである。(p.71)

なにやら注によるとepistemic relativismとcognitive relativismの二つの語が使われていけれど日本語版では「認識的相対主義」に統一されているようです。そしてこの本で扱っているのは認識的相対主義のみで、倫理的相対主義とか審美的相対主義については議論していないそうで。

相対主義者が物理学や一般の科学知識の基盤についてもこうした考え(個人や社会集団に依存して決まる)を(ずさんな論理で)適用していることに異を唱えている、という点が批判の中心であるように読み取れます。

ソーカルたちの指摘は科学的なものに限っていますし、相対主義への批判も「認識論的相対主義」に対してのものなのでしょうが、便乗して私見をいえば、倫理的や審美的なものについても、あるいは文化全体についても相対主義者の暴走(濫用)は目に余るものがあるとは私も思ってます。

そこで、こうしたある種の思想家が「相対主義」を無理矢理にでも主張してくるのはなぜなのか、という点についてちょっと考えてみます。

その動機には「不可視化されて内面化されていることを可視化して相対化したい」というものが含まれていると言って良いのではないでしょうか。相対主義なんだから相対化しようとするのはあたりまえかもしれませんけどね。

で、この動機が強すぎて「不可視化されて内面化されていること」が実際には存在しない(=論証出来ない)かもしれない場合でも捏造やデタラメ理論のコケオドシまで使ってやってしまう場合があるってことなのではないかと。

ソーカルのパロディ論文はそうした欲望に対してあまりに見事に嵌っていたので、碌に査読もされずに載ってしまったということですよね。

「物理学とか一般の科学知識は(少なくとも暫定的には)普遍的な真理である」という常識とされている考えに対して、「社会的要因と直接関係ないところにある『実際の世界のあり方』などは存在しないのだからそれらは社会的要因によってのみ規定されており、原理的に普遍的真理とは絶対になりえないのだ」という主張が確かな根拠を持って語られたとしたらそれはまさしく世界のすべてが相対化されたといえるほどのインパクトだと思います。

確かなものなど何もない!映画「マトリックス」でいえば「There is no spoon.」ってヤツです。

そして、これは特定の政治的主張を持つ人々に非常にうけいれやすく、またその論証が期待されているものでもあるようです。堀先生のところから引用してみます。

つまり、彼は、大胆な「悪戯」によって、『ソーシャル・テキスト』のような先端的な大学出版誌が、「断言調のかっこいいスタイルで書かれていさえすれば、そして『ウルトラ左翼』的なイデオロギーに迎合するものでありさえすれば」、無茶苦茶な「論文」を掲載することを証明してみせたのだった。

極端な認識論的相対主義=「『ウルトラ左翼』的なイデオロギー」なわけです。既存の権威や価値に対してそれが絶対的なものではないと主張してその根幹を揺さぶれるのなら、それは彼らの「敵」への有効な攻撃になるということなのですね。学術的に正しいかどうかじゃなくて政治信条的に望ましいかどうかで採用されたわけです。

ソーカル自身の言にもあります。

彼らは、単に(ソーシャル・テクスト誌の共同編集者ブルース・ロビンスが後に認めたように)「うまい具合に信用ある立場にいる味方」が書いたものであり、編集者たちのイデオロギー的な傾向にくすぐっていて、彼らの「敵」を攻撃しているというだけの理由で、自分たちには理解できないと認めている量子物理についての論文を、専門家の意見を一言も聞かずに、雑誌に掲載してしまったのである。

これは「善/悪」の価値判断を扱う倫理的相対主義の成果なんでしょうかね。それとも「美/醜」の判断を扱う審美的相対主義の結果なんでしょうか。いずれにせよ普遍的な「醜悪さ」が存在しないと考えれば自分たちの政治信条に都合が良いという理由で(または都合がよくないという理由で)査読結果を左右しても何にも問題がないとは言えるでしょうから。彼らの属する集団が是とすればそれで良いわけです。

ええと、最後に「はじめに」から引用。

最後に、無駄な論争やつまらない「論駁」を避けるために、この本は左翼知識人に反対する右翼のアジビラでもなければ、アメリカ帝国主義者のパリ知識界への攻撃でも、「常識」にうったえる単純な蒙昧主義でもないことを強調しておこう。実際、われわれが擁護する科学的な厳密さが「常識」とは相容れない結論をもたらすことは少なくない。さらに、われわれが批判する蒙昧主義、混迷した思想、反科学的な姿勢や、「偉大な思想家」の宗教的なまでの崇拝などは、いかなる意味でも左翼的ではない。(略)われわれの目的は、きわめて単純に、どの国の誰が書いたものであれ、知的な格好づけや不誠実さを告発することだ。(pp.21-22)

これを読んで人ごとだ、自分は該当しない、として笑っていられる人は幸せだなあ、と思う。

「知的な格好づけや不誠実さ」は何も物理や数学概念を用いたときのみに起きるわけではないでしょう。ソーカルたちはそれが専門だったので、それ一本で批判しただけで。人文科学における用語や概念の濫用は物理や数学の概念に対してだけじゃなくて、同じ人文科学で用いられる概念についてさえもしばしば見られるわけですし。ソシュールのシニフィエとシニフィアンなんてしょっちゅう誤用というか濫用されてます。それに学説の真偽が政治的に判断されることも多いように見える。というか学者の肩書きで政治活動しかやってない人たちが(ry。

とりあえずそんなとこ。
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[ 2005/10/28 18:58 ] 学問・資格 | TB(0) | コメント(-)
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