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犬も喰わないnewsの数々に斜め横からアレコレ

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AはBである。なぜならばCだから。 

議論が成り立つとか噛み合うとかいうのはどういう状態のことを言うのか、ちょっと考えてみました。以下漠然とそういう話。今後何かと必要になると思うので、一回なんとなくでもダラっと考えを吐き出してみようかなと。

ええと、議論の端緒となるもっともミニマルな感じの立言っていうか、そういうヤツは「AはBである。なぜならばCだから」ってものではないかと。

で、実際の議論においてはこんなわかりやすく単純な形では出てこないのですけど、その構造みたいなものを見て行くと、やっぱりこのシンプルなパターンにどこまでも還元していけるようになっているのではないかと。若干の変形が考えられたりしますけどね。たとえば「AはBではない。なぜならばCだから」とか。

とはいえ、とりあえずは「AはBである。なぜならばCだから」だけで考えてみますね。

というわけで、まず、甲さんと乙さんとの間で議論になった場合に両者は何をするのかというと、「AはBである」というのが正しいのか間違っているのかを検討するわけですよ。そして正しい(真)にせよ間違っている(偽)にせよ、両者がいずれか一方に合意できれば良いと。合意できる道筋を探すのが議論なわけですな。

この検討過程で、では両者が具体的に何をするのかというと、二つ考えられます。一つは「なぜならばCだから」のCが本当か嘘か、つまりCの真偽を確認すること。そして二つ目は「なぜならばCだから」の検討結果が「AはBである」の真偽を確定する際に役に立つものなのかどうか、について妥当性を検証することです。

ちょっと具体例を出してみますかね。

「タローちゃんはアホや。ハナちゃんが言ってたで」

という立言(←でいいのか?)は次のように当てはめることができます。

「[A:タローちゃん]は[B:アホ]である。なぜならば[C:ハナちゃんが言ってた]から。」

「タローちゃんはアホである」について議論する場合、まず「ハナちゃんが言ってた」というのが本当なのか嘘なのかを確認しなくてはいけません。そして次に「ハナちゃんが言ってた」ことが「タローちゃんがアホである」ということの妥当性を左右し得るのかについても検討する必要があります。

「タローちゃんはアホや。ハナちゃんが言ってたで」
「ハナちゃんはそんなこと言うてへんやろ」
「昨日オマエと三人でいるときに言うてたやろ?聞いたはずやで」
「あー、そういえば言ってたなー」

となれば「ハナちゃんが言ってた」に関しては両者が合意したことになります。で、次にこのことが「タローちゃんはアホである」の真偽と関係あるかどうかの検討に入ります。

「ハナちゃんがそう言うてたからてなー」
「タローちゃんのこと昔からよう知ってるから確かや」
「せやけど言うてることコロコロ変わるやろ?」
「あー、そうかもなー当てにならんかもなー」

という風に議論が進んで、Cが「AはBである」の真偽を判定するのに妥当な論拠ではないと合意した場合、「AはBである」とは言えない、つまりこの議論は「AはBとは限らない」という結論に至ります。「タローちゃんがアホかどうかはわからない」ということです。注意しないといけないのは「タローちゃんがアホではない」とはならないという点ですかね。

そして、この簡単な例でも明らかなように、Cの内容やCが根拠として妥当かどうかの判定の部分でも、「AはBである。なぜならばCだから」を使っているわけです。「ハナちゃんが言ってた」の真偽を判定するために「オマエも聞いていたではないか」というのを持ち出してきているし、「ハナちゃんが言ってた」ことが根拠となるかどうかの検討でも同様のものが見られます。

根拠の検討は「[C]は[根拠]である。なぜならば[D]だから」となるわけですが、これは「AはBである。なぜならCだから」と同じです。この場合には[C]がAで[根拠]がBで[D]がCにあたります。入れ子構造というかフラクタルな関係になっててややこしいですけど。

究極の懐疑論者にとっては確かなものは絶対に存在し得ないように、論拠の妥当性や真偽についてもどこまでも合意しないということは可能です。

「オマエも聞いたはずやで」
「聞いてない。覚えてない」
「ならハナちゃんつれてくるわ。ハナちゃんどや?」
「アタシ言うたで」
「信じられん」
「なら今言うわ。タローちゃんはアホや」
「今言うたかて、昨日言うたことにはならんわ」
「今かて昨日かていっしょやんか」
「というかオレは昨日ハナちゃんに会ったんか?」
「会ったやろ。飯食うて騒いだやんか」
「そんな気はするけどな。ホンマかわからん」
「わかるやろフツー。アタシらも保証してるわけやし」
「オレの記憶は疑似記憶かもしれん」
「アホやコイツ。金も貸したやろが。忘れんなや」
「というかオマエはホンマにハナちゃんか?」
「そうやて。誰やっちゅーねん」
「なんかタローちゃんて実在してない気がする」
「勝手にせーや。病気やで」

ええと、私は、議論が成り立たない人のタイプとして両極に「究極の懐疑論者(どこまでも根拠に妥当性を認めない人)」と「全く何も疑わない人」がいるのではないかと考えています。

「タローちゃんはアホや。ハナちゃんが言ってたで」
「はー、やっぱりなー」

「西から昇った太陽は東に沈むんや。天才バカボンで言ってたで」
「はー、やっぱりなー」

このタイプの人の場合、Cはあってもなくても同じです。検討せずに合意に達しているわけですから。どんな薄弱な論拠でも合意するということは論拠がいらないということです。これでは議論する意味がありません。「AはBである」とだけ言えば合意するわけですね。それがどんな突拍子もないものであっても。

普通こんな極端な人はいないでしょうし、またそうした人間になることが要求されることもありません。

ただ初等教育などでの一方的というか受け身の授業などでは生徒に要求するかもしれませんけど。質問は受け付けない。君と議論しているわけではない。黙って聞きなさい、ってヤツです。でもその場合には「学校で教えている」ということがCにあたっていて、その妥当性は予め保証されていることになっていたと考えられます。

また一昔前のマスコミ報道に対する視聴者の姿勢というのにも同じようなものがあったかもしれません。この場合も「マスコミで報道されている」ということがCにあたっていて、その妥当性については予め社会全体での合意というか保証がされていたということなんでしょう。今は見る影もない気がしますけど。

ところで、この「何も疑わない人」でも場合によっては「究極の懐疑論者」と同じようにどこまでも合意しないということもあります。

「地球は丸いんやでー」
「信じないよ。地球は平らだ。だって平らだもん」
「水平線の向こうから近づいてくる船はマストから見えるやんか」
「知らないよ。地球は平らだ。だって平らだもん」
「宇宙からみた地球の写真とかあるやんか」
「あんなの嘘だ。地球は平らだ。だって平らだもん」
「北から南に行くと同じ星の位置が下がって見えるで」
「知らないよ。地球は平らだ。だって平らだもん」
「地球が平らだとしたら、その端はどうなってるわけ?」
「知らないよ。地球は平らだ。だって平らだもん」
 (中略)
「はいはい、地球は平らだね。地図とかもそうだしね(嘲笑)」
「やっと合意できたね!地球は平らだ。だって平らだものね!」

まあ議論する際にはこういうタイプの方が懐疑論者を相手にするより私は嫌ですけどね。とはいえ実際はどっちも嫌なんですけど。たぶん究極の懐疑論者よりはこっちの方が実在する可能性は高いので、現実問題として遭遇する機会もあったりして、そのせいでより嫌なんだと思います。

もうちょっと整理すると、この両極端の人に共通するのは「私(=自分)がどう思うか」へのコダワリなんじゃないかなあ、と。つまり「究極の懐疑論者」はどこまでいっても何に対しても「私はそうは思わない」ということを持ち出してくるわけです。言ってしまえばこれを根拠にしている。で、もう一方の「何も疑わない人」は何に対しても「私はそう思う」ということを常に根拠として持ち出すと。

前者は常に疑い続けるので、これにはどうやっても合意することは不可能です。論理というか証明の入れ子構造、フラクタル構造の深部へと引き摺り込まれていくだけですね。底がないのでどこまでも行ってしまう。後者は場合によっては(常に?)合意らしきものに到達することが可能ですけど、それは根拠の検討を経て到達したわけではないので、そこには議論はありませんし、その合意には合意としての意味は何もありません。

で、長くなったのでここらで適当にまとめます。

議論をして面白いのは「何も疑わない人」と「究極の懐疑論者」との中間あたりにいる状態の人を相手にしたときでしょうね。

いついかなる時や場合でも絶対に「何も疑わない人」というのは、単純に言えばまあバカか狂信者なわけで相手をしててもしかたがありませんし、見かけたら議論なんてしかけないで逃げるべきです。ただ、同じ価値観だとか知的背景だとか信条だとかを共有しているために、あるいは深い信頼関係にあるために他者と比べて互いが「何も疑わない人」状態になっている場合というのは比較的有り得ることだと思います。そういう関係はかなり心地よかったりもしますので、議論が成り立つかどうかとは別の次元で評価した方が良いでしょう。

「究極の懐疑論者」は先にも述べたように永遠に見つかることのない合意点を探し続けるという無意味な行為に引き摺り込まれるので最悪なんですけど、お互いがものすごい忍耐力と執念深さを持っている場合には、もしかしたら人類の誰もが到達したことのないものすごい究極の真理みたいな合意点に達するかもしれません。だからこれも議論の成立とは別次元での評価は可能かと思います。

と、いうことを考慮した上で、「何も疑わない人」同士という関係からは(やや)遠く「究極の懐疑論者」同士からも(やや)遠い関係で議論をするとどうなるか、についてちょっと説明してみますね。

この関係ではお互いがツーカーで納得できるような根拠は無いので、互いが納得できる根拠の合意点を探るために通常認知しているよりも(=当たり前と考えていることよりも)やや深く入れ子状の論理構造、フラクタル構造の中へ潜っていく必要があります。深すぎず、浅すぎずというところがミソですね。

そして上手く合意点が見つかったときには、そこから表層へ向けての範囲に、それに起因する新たな発見がいくつも見つかったりして、なんというか得るものがたくさんあってウハウハになるのではないかと。今まで行っていた認識とはちょっとだけ違う認識を得ることが出来るのではないかと。そしてこの新たな発見によって、たとえば今までは行き詰まっていた諸々の問題なんかに解決の糸口が見つかったりするかもしれない。

浅すぎては変化は上っ面だけだし、深すぎては表面にまで変化が届かない。というか後者の場合には変化が深くて大きすぎるともうシッチャカメッチャカになってしまって収拾がつかないので、結局現世利益(?)は期待できないってとこでしょうかね。

なんか最後は自分でも何書いてるのかわかんなくなって来たのでとりあえずこんな感じで終わっておきます。


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[ 2005/10/26 09:47 ] ウェブログ・ココログ関連 | TB(1) | コメント(-)
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「議論」についてあれこれ考えることの多い今日この頃、先日も「愛のギロンロン」と題して「愛があれば議論は平和の裡に持続的に発展する」なんてこと書いてみたけれども、「愛」ってなに?「持続的発展」ってなに?というところを、今度はもっと具体的に書いてみたいと思っ
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