そんなnewsは犬も喰わない

犬も喰わないnewsの数々に斜め横からアレコレ

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

『憲法九条を世界遺産に』を読んでみた 

【あらまし】 『憲法九条を世界遺産に』を読んで思ったことをちょっとだけアレコレ。『靖国問題』とかとも合わせて考察。
【キーワード】 [憲法九条][靖国問題][中沢新一][高橋哲哉]



中沢新一先生&太田光氏の『憲法九条を世界遺産に』を読んでみた。良いと勧めている書評をみたのと、自分で冒頭を立ち読みしてみたら宮沢賢治の話から始まっていたので、もしかしてホントにオモロイのかもと思ったので読んでみたわけですよ。



で、結果はうーん、ビミョー。



基本的に太田光氏の芸は落し所を考えないで思いついたことを口走って暴走する、ってところにあると思うのですよ。前に何かの番組でイキナリ脈略もなく唐突に「ボナペティって何語だ?」と言い出して、そのまま誰も受けられず本人も処理できないままウヤムヤになってたりしたのを見たことがあるのですが、そういう芸風でプロとして安定してやっていけるというのはたぶん才能なんでしょうな。



そんで、その芸は確かにこの本の中でも生きていて、オウム問題や女性天皇(たぶん女系天皇のことが言いたかったのだと思う)ネタとかをいきなり中沢先生に振ってオタオタさせてたように読めたし。アレは太田氏にしか出来ない芸だとは思う。



ただ暴走はあくまで暴走というか、単なるその場の思いつきをそのまま口にしている感じなので正直言ってることはハチャメチャとしか言いようがないわけで。たとえばこんな発言↓があったりします。


太田 僕は、軍隊を持とうと言っている側のほうが、覚悟が足りないと思うんです。それを強く感じたのは、イラクの人質事件です。最初に三人が人質になったとき、自己責任だという話が出てきた。彼らは、幸いにして助かったけれど、その後一人で行った香田君には、さらに自己責任論が膨れ上がった。あの危険なところに自分探しの旅に行くなんて、あまりに軽率だろうと。僕はあの論調を見ていて、なんだこの国はと腹が立ちました。

 僕だって、若いときは無鉄砲だったし、バカだった。今だって、たいして変わりません。この国は、バカで無鉄砲な、考えの足りない若者は守らないのか、死んでもいいのか、と思いました。

 実際に香田君が殺されたときも、自己責任だったと、国も言うし、国民も言った。自分の国は自分で守りましょうと言っている人たちが、自分たちの国民を殺されて、文句一つ言わないなんて、何が国防なのかと思います。そんな人たちが軍隊を持っても、戦争なんてできないと僕は思うんですよ。(pp.145-146)



逆じゃないんすか?と思う。何が逆なのかというと「バカで無鉄砲な、考えの足りない若者」が殺されても平然としているような国というか国民だと「軍隊を持っても、戦争なんてできない」ってところです。



国民を「良い」国民と「ダメな」国民に分けて、前者を顕彰しつつ後者を貶めることがなされ続けたときに始めて戦争を起こせるような「良い」国民ばかりの国になって、そんでもって戦争にその「良い」国民を動員できるようになるんじゃないですかね。バカでも無鉄砲でも誰でも庇護されるべき国民である!なんていう国なら戦争を起こせませんよ。起こしても負けるだろうし。



なんつーのでしょーね、より「良い」国民になりたかったら国の為に戦争で死になさい!という要請に応えようという機運が生まれて始めて国民を総動員した戦争が可能になるわけです。戦前なんかは死んでもラッパをはなさなかった木口小平さんとか、猛吹雪の中やはり死んでも郵便物を守った吉良平治郎さんとかの話が「良い」国民像として教育の現場で語られたりしていたわけですよ。一方「またも負けたか8連隊それでは勲章9連隊」とかいって大阪人で構成されている第八連隊(と京都人の第九連隊)なんかは軽蔑の対象だったわけですね。そういえば大阪とかってバカ(というかアホ)や無鉄砲に甘い土地柄だと思うですがどうでしょう。



実は「靖国問題」っていうのも根っこはこのあたりにあるという指摘が高橋哲哉先生の『靖国問題』でも語られてたと思います。国家による「追悼」施設というのは実は(靖国神社に限らず)「顕彰」施設でしかないというような指摘がなされてました。オイラもその見立てには賛成でやんす。「追悼」はやはり故人との個人的な関係の中でなされるもんじゃないかと。そこに国家やら当局が絡んできた場合、それは「追悼」というよりも「顕彰」となってしまうのでしょう。



そんで(戦)死者のあるものを「英霊」として「追悼」に見せかけつつ「顕彰」する行為は必然的に「良い」死者と「ダメな」死者を分ける行為であり、その死者は生者である「国民」の行き着く先でもあるわけですよ。閻魔大王とか天国の門と同じような機能を果たしているわけなんでしょうな。死者を顕彰することによって生者の行動をコントロールするというか。国民総動員に適したように調整していくわけですよ。



そういう意味で「靖国問題」というのはA級戦犯合祀がどーのこーの、という問題ではなくて「国家が死者の顕彰を通じて(国家の維持にとって)良き国民を育成する動機付けをすることの是非」問題だったりするってことですね。詳しい議論みたいなところは実際に『靖国問題』を読んでもらった方が良いのでここではトレースしませんが。



で、ちょっとワキへズレますが「靖国問題」をこういう風に捉えると、小泉首相が靖国参拝にこだわったことが「国益なのかどうか」っつー問題についても一応の答えのようなものは導きだせるのではないかと。あと国が主体となって「追悼」することは全て「顕彰」になってしまうのだとすると代替施設だのなんだのをつくっても問題が更にややこしく(そして非宗教化することで更にヤバく)なりますわな。今のようになんとなく怪しくスッキリしない感じで宗教法人を参拝していた方が「顕彰」作用の暴走をコントロールできているように思えます。



っつーわけで「靖国問題」の短期的な解決というのはなんとなくウヤムヤにして政治問題化しないというのが最良だと思うんですけどね。首相によって参拝する人としない人がいてもいずれも問題にしない。特定諸外国も文句をいうくらいは御自由にどうぞ、だけど外交カードとやらにはしないでね、というのが現実的かと。



ここを突っつくと上で書いたみたいに国民国家としての日本国のあり方そのものを改めて問うことになってしまって、そんでもって現段階で「国民国家としての日本国は是か否か?」という二択に「否」と答える国民は極少数だろうし、そうなると「是!」の大合唱→ナショナリズム暴走という二段コンボは必然なわけで、特定周辺諸外国も日本国民もともにウンザリする結果になると思うのですよね。



あー、で、米国や英国なんかが靖国のことを突っつかないのはこのあたりの原理がわかっているからじゃないのかな、とオイラは思ってます。アーリントン墓地なんかの機能もコレなわけですからな。戦争に国民を動員するための装置であり、平時においても「良い」国民を生産する装置でもあるわけですよ。自分のトコにもあるのでよくわかっていると。特定周辺諸外国あたりは自分のトコにはこういうのが無いので突っつくヤバさがわかってないんじゃないかな、と。



ほんで、『憲法九条を...』に話を戻しますね。終わりの部分で中沢先生はこんな風↓に話をまとめてます。


 憲法九条を含む日本国憲法は、たしかに尋常でないつくりをしている。憲法は国家の構成原理を明確なことばで表現したものであり、国家というものを(幻想でできた)生命体にたとえてみれば、とうぜんそれは生命体としての同一性を保つために、免疫機構をそなえていなければならない。自分と他者を見分けて、自分の内部に外からの異質な力や存在が侵入してこようとすると、国家はすぐさまある種の免疫機構を発動させて、これを自分の外に押し出そうとする。その際にはしばしば武力が行使される。またほかの生命体と空間や資源をめぐって、あらそいをおこすこともあり、その場合にはより大規模な武力行使である戦争が発生することもある。いずれにしても、国家と戦争はきってもきれない関係で結ばれているのである。

 ところが、日本国憲法は第九条において、いかなるかたちであれ、国家間の紛争解決の手段としての戦争を放棄する、と言うのである。さきほどの免疫機構の比喩で言えば、日本という国家は、その機構の最深部分で、自らの免疫機構を解除しようと思う、と語っているのと同じである。このような思想をもつ憲法は、すくなくとも現代国家のなかで日本のものだけである。常識的に考えるかぎり、このような国家思想は尋常ではない。ほかの国家はこのような免疫解除原理にもとづいていないわけだから、とうぜん現実政治の現場では多くの矛盾が発生することになる。そしてこれまで日本は、そうした矛盾が発生するたびごとに、トリッキーなやり方で、困難な事態をなんとか切り抜けてきた。(p.167)



国家を免疫機能を持つ生命体にたとえて話をしてます。国民顕彰システムというのもこの免疫システムの一環とはいえそうですな。「ダメな」国民は排除の対象になるわけですよ。「自分と他者を見分けて」というときの「他者」に「ダメな」国民を振り分ける。「非国民」って言ったりしますよね。「非国民」というのは外国籍の人間に向かっていうコトバではないので、字義通りの意味じゃなくて「ダメな」国民を指しますわな。外国人も他者だし非国民も他者。「良い」国民=国民であり、国民だけが国家の構成要素であり「自分」なわけです。それ以外は排撃する免疫システム。



で、戦争の放棄というのは中沢先生が書いているように排撃システムとしての免疫機構に欠陥があるってことなわけですよ。免疫機構の一部が予め潜在的に機能不全に陥っていると。



だからこれを日本国に課した側の思惑としてはナショナリズムの暴走を防ぐための仕掛けのつもりだったんじゃねーのかなーとか思うわけですね。排外的な気質を制限するというか。排外的な機運が暴走して過剰に免疫機能が働いても最後の部分で武力行使ができないとなると結局無化してしまうというか。



コミュニケーションを断絶させて武力行使に出るという手段を封じていることで、どこまでも対話を行なわなければならない、対話に対して開かれてなければならないというか。



ただ、このあたりに関してもどーかなーと引っかかる部分なんかもあります。



『憲法第九条を...』の冒頭に話題として出て来て憲法九条を考える上で最重要であるようなことを言っていたのに全然語られなかった宮沢賢治ネタのあたりにも絡む話なのですが。


太田 実は僕も今回の対談で一番お聞きしたかったのが、宮沢賢治のことなんです。あれほど動物や自然を愛し、命の大切さを語っていた賢治が、なぜ田中智学や石原莞爾のような日蓮主義者たちの思想に傾倒していったのか、そこがわからない。僕は賢治の作品を信頼するけれど、戦争は否定したい。そこが相容れない。おそらく賢治は満州事変なども肯定するわけです。ここで単に賢治が間違っていたのだと言ってしまえれば簡単なんですが、彼ほどの感性を持った人が間違っていたわけがないとも思える。少なくとも彼の書いているものを読むかぎり、彼の感性を信じたいと思う。彼の感性を信じるならば、むしろ田中智学の思想を「間違いだった」ですましてきた戦後の判断を疑うべきではないか。賢治を信じる限り、「田中智学は悪だった」ではすまなくなる。(p.20)



えーと、宮沢賢治が國柱會に傾倒していたっていうことと、彼の作品とがうまく結びつかないという話をしているのですけど、オイラなんかには逆にこういう感想の方がよくわからんのですよ。



とはいえ田中智學が起こした國柱會の教義そのものについては全然知らないんですけどね(←ダメじゃん!)。ただその熱心な信者だったらしい石原莞爾の『最終戦争論』は読んだ事があります。その内容には呆れてワロタのですけど。いや、あまり「ワロタ」とかストレートな感想を書くと怖い方々に睨まれそうでアレなのですが。オイラの予想に反して内容の大部分は日蓮上人の予言ではこーだからあーだから...というモノだったんですよ。



で、それはそれとして(?)こんなこと↓が書いてあります。


悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの固い信仰であります。今日、特に日本人に注意して頂きたいのは、日本の国力が増進するにつれ、国民は特に謙譲の徳を守り、最大の犠牲を甘受して、東亜諸民族が心から天皇の御位置を信仰するに至ることを妨げぬよう心掛けねばならぬことであります。天皇が東亜諸民族から盟主と仰がれる日こそ、即ち東亜連盟が真に完成した日であります。しかし八紘一宇の御精神を拝すれば、天皇が東亜連盟の盟主、世界の天皇と仰がれるに至っても日本国は盟主ではありません。(pp.44-45 )



これでも彼は「右翼」なんですかね。日本国民は東亜連盟のために「最大の犠牲を甘受」すべきと言ってます。そして天皇陛下が「世界の天皇」になっても「日本国は盟主ではありません」だそうだ。



日本国民は「東亜連盟」ひいては「世界」のために犠牲になれ!と言ってますね。東亜とか世界の融合、融和というのでしょうか、そういうものを成し遂げるための犠牲になれと。いや、そうなることに決まってる、というような説ですわ。日蓮上人の予言とかで。



他者との境を消して一体となるために犠牲となれ...って主張はフツーに宮沢賢治の作品を読むと読み取れる主張というか基調底音に見えるんですけどね。オイラなんかには。だから実はちょっと苦手。



あー、で、いいかげんまた長々書きすぎたのでここらあたりで終わりにしときますが(←!)太田光氏の主張というか言ってることの基調底音も宮沢賢治と似ているところもあるし、石原莞爾とも似ているように見えます。



と、いうことは「憲法九条」が喚起する何かもこれと同じ基調底音を持っているんじゃないかな、と思うわけですよ。ちょっと詭弁っぽいけど。



所謂日本の侵略戦争を推進した原理っていうのは実は排外主義よりもこっちの融和主義みたいなもんの影響が強かったんじゃねーの?っていうか。免疫システムを止めて他文化、他国家を吸収合体融和していこうとした姿勢の方がヤバかったんじゃないの?っていうか。



ま、もちろんそこで武力行使が禁止されてれば、なんというのかな、下品な喩ですけど「強姦殺人」みたいなのは遂行不可能で「和姦」というか話し合いなど暴力を伴わない合意の上でのアレしか不可能になるので安全といえば安全とはいえるかもしれんですけど。



ただ、やっぱり本当に危険で害悪な思想っていうのは実は上で指摘した基調底音みたいなものの方なんじゃないのかなーという気持ちが私には強くあります。免疫機能というか排除機能を全停止して何もかも解け合うような世界を夢見る人々っていうのは生理的に受け付けないというか、正直キモイしコワイ。



ま、そんな感じ。

スポンサーサイト
[ 2006/10/17 00:50 ] 経済・政治・国際 | TB(0) | コメント(-)
プロフィール

犬桑主監

Author:犬桑主監
正式略称は「犬桑news」です。
気軽に呼んでください。

ブログ検索
総合案内

ブロとも申請フォーム


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。