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イシノスキーさんが母語を失ったらしい件 

【あらまし】 元日本兵で戦後消息不明だった上野石ノ助氏がウクライナで生活していることが判明し、63年ぶりに帰郷するというニュースがあった。この際上野氏が現在日本語を全く解せず、通訳が付くという状態だったことに驚いた。母語喪失について「たった一つの、私のものではない言葉」(デリダ)などを参照しつつ考察してみる。
【キーワード】 [母語][デリダ][イシノスキー][アーレント][イリイチ] まず、元日本兵上野石ノ助氏(←ウクライナではイシノスキーと名乗っているらしいです)が日本語を喪失している点について言及したブログから引用してみます。

20歳までは日本にいたのに日本語がほとんど話せなくなってしまったというイシノスキー。。人って本当にそうなっちゃうものなのでしょうか。。うちの父はベトナム人?と周りが信じるくらいベトナム人化していたけれど、日本語はふつーに話しました。

引用先のブロガーさんはお父様がイシノスキーさんと同じように戦後行方不明だったけれどベトナムで生活しているのが発見されたのだとか。

で、この疑問は当然だと思うわけです。20歳まで日本にいて日本語を話していた人が完全に日本語運用能力を喪失するなんてことがあるのだろうか?と思いますわな。

ええと、これに関して「たった一つの、私のものではない言葉」の長い註に言及があるので引用してみます。

「母語という代替不可能なもの、非-代補可能なものを語った後、アーレントはつけ加えている---「人が自分の母語を忘れてしまうこともあり得ます。それは確かです。身近にいくつもその実例がありますし、そのうえ、その人たちはさまざまな外国語を私よりずっと上手に話します。私はあいかわらずとても強い訛りで話しますし、慣用語法で考えを表現できないこともしょっちゅうです。反対にあの人たちにはそれができるのですが、しかし、その際彼らが扱っているのは、そこにおいて一つの常套句が別の常套句を駆逐してしまうような言語です。なぜなら、自分自身の言語においてなら発揮される生産力が、その言語が次第に忘れられていくにつれて、はっきりと断たれてしまったからです」。質問者はそのとき、母語のこの忘却が「抑圧の結果」なのではあるまいかと彼女に尋ねている。アーレントは同意して言う---そう、母語の忘却、その際母語を補っている置換は、まさに抑圧の効果なのです、と。(p.163)

イシノスキー氏は消息不明だった理由について「運命としかいえない」と短く語っていたと思います。ウクライナでの生活がどういうものであるのか、幸せなのかどうかについては私には全くわかりませんが、母語である日本語の忘却...という現象はなんらかの「抑圧の効果」なんじゃないかな、とは推察できます。

上で引用した註でデリダは、アーレントが母語(この場合はドイツ語)を忘却させるような「抑圧の効果」をもたらす原因となったと考えているものは「アウシュヴィッツ」だ、と指摘しています。

「アウシュヴィッツ」をもたらしたものが(母語である)ドイツ語の狂気だという事実から目を逸らすには母語を忘却する他方法がない場合がある...ということかな、と。

ちなみにアーレント自身は「何が残ったか?母語が残った」という宣言の中で「それでも、狂ってしまったのはドイツ語ではありません!」「何ものも母語に代わることはできないのです」という繋がらない二文を繋げているらしい。これによって(?)母語を肯定しているためアーレントは非母語言語の習得が今イチなようだ。

うーんと、この「たった一つの、私のものではない言葉」という本は、タイトル(仏語を直訳すると「他者の単一言語使用」となるらしい)についてコネコネとダジャレ風のアレコレとか色々な次元に話を飛ばしながらグダグダ語るという後期デリダスタイルで書かれています。

そんなわけで、こういう本の正しい読み方は読者も同じように勝手にコネコネコネクリまわせば良いってことなんじゃないかと私は思ってるので、これからコネます(←!)。

どのへんからいきますかね。「母語」あたりからかな。「母語」っていうのは「母である言語」ですわな。ヒトが最初に習得する言語のことです。「母」という字がつくと特殊な感じになるので「第一言語」と呼べ!という勢力なんかもありますね。

で、この「母」って概念なのですが、これってやっぱり特殊だと思うのですよ。「母」っていうのは他者の中でもかなり変わった存在じゃないですか。

ええと、今ここに甲さんという人がいたとして、その人の実母が乙さんだとしますわな。甲さんにとって乙さんは他者だけど、ある時期まで甲さんは乙さんの一部だったことがあるわけですよ。甲さんが発生して胎内で生長している間、へその緒が切れるまで他者じゃなかったわけで。ま、ここでいう他者ってちょっと限定しすぎな意味でつかってますけどね。

「母である言語」としての母語ってのもそういう風に理解できるんじゃないか、と私は思いました。誰も言語を所有できないという意味で「言語は他者である」ってことはいえると思います。ヒトの意識を形成するものは言語(←記号学的なアレでヨロシク!)であるわけですが、そういう意味ではヒトの意識は言語に所有されていることはあるかもしれないけど、その逆は無いっつーことです。で、そのヒトの意識がスタートするときの初期値、初期布置として与えられている(←所有できないのに!)ものが「母語」じゃないかと。

なんだかゴチャゴチャしてますが。要は「母語」というのはヒトの意識が発生するときの母体であって、その時期他者ではなかったので他の言語と比べて特殊な他者であるようなものだ、って感じ。あと意識以前の存在なので意識によって選択することができないものでもある。

それとあと「単一言語使用」というのについてもコネてみますね。ヒトは実は「単一言語」しか使用できないという風に私は読みました。でもそれは「母語」しか使用できないとか、日本語なら日本語だけ、仏語なら仏語だけ、とかそういう意味ではありません。

強いていうなら一杯しかカクテルが飲めない制限みたいなものといいますか。カシスソーダとジンジャーエールを別々に頼んで二杯飲むことはできないけど混ぜてなら飲めますよ、って感じですかね。シャーリーテンプルかよ!って指摘もあるかもしれないですが。たとえ話は混乱の元凶なんでこのくらいで。

うーんと、私は英語がかなり駄目な人間です。母語は日本語。なんで駄目なんだろうなー、と色々考えてみた結果ですが、たぶん基本姿勢がなってなかったんじゃないかと。

つまり、日本語が母語である私の「単一言語使用環境」において英語を習得する、というのは「日本語」と「英語」を包括するような単一言語環境のレシピを作ることだったんだなあ、それをわかって無かったなあ、とでも言いますか。何言ってるかわからんですかね。

これも良い例ではないんですけど、日本語の中に(国語って言った方が良いかもしれんですが)「漢文」という形で「中国語」が取り込まれてますよね。あれは読むだけですけど。シームレスな形で入っている。

で、あれを含むことで国語全体が変化しているわけですよ。一応分けることもできるけれどかなりの部分混じってしまっている。

個人の「単一言語使用環境」でも同じようなことでしか複数の言語(日本語とか英語とか一応確立しているとされる言語)使用が可能にならないんじゃないかなあ...と今は考えています。

そういえばデリダはアーレントの話にして何か誤摩化している感じですが、彼自身もかなり外国語(英語?)の習得が駄目な人だったはずだと思うのですけどね。

えーっと、上で引用した長大な註の中でデリダはレヴィナスについても言及しています。

いったいなぜ、根と、あるいは母語の推定された自然なるあるいは神聖なる独自性と手を切る必要があるのだろうか?それはたぶん、神聖化による偶像崇拝から手を切り、法の聖潔性をそれに対置するためである。だがそれは、父の聖潔なる法の名において母の狂気から目覚めることへの呼びかけでもあるのではなかろうか?(p.166)

レヴィナスの母語はおそらくリトアニア語だと思うのですが、彼は仏語の中で生き、またロシア語、ドイツ語、ヘブライ語などにも堪能であったらしい。

仏語に感謝を述べたことはあったらしいが、仏語は後天的に選択したものであるので、「母」的なものへの感謝とは全然質が違っていることが指摘されています。レヴィナスの主張はこういうこと↓らしい。

言語は、発生ないし基礎づけであるよりもむしろ「表現」なのである(p.166)

「『母(語)』的特有言語が、意味の起源的で代替不可能な場ではない」ということでもあるらしいですけど。

まあ、これはデリダの一方的な解釈なので、これが「正しい」見解なのかどうか私には判断が付かないんですが、ちょっと思い当たるところはあります。ていうか、ただの感想なんですけどね。

ええと、レヴィナスの書いたものをワケあって(←!)読んでみたりしていたのですが、うーん、なんというか、変な感じだったんですよ。

言っていることは「なるほどねー」というようなもので、私が関心を持たないような領域のことではないし、他者と時間についての話とか賛同できることも多いし...という内容なのになぜか全くグッとこない。

仏語は読めないので日本語訳で読んでいるのですが、何かこう、「グッと来ない」としか私の貧困な表現力では言い表せない感じなんですよね。

その原因について上に引用したデリダの書いているものなんかを見て思い当たったわけですよ。「狂気を抱えつつそれを無理矢理驚異的な力技で抑え付けているヒトが書いたもの特有のアレ」が無い。故にツマラナーイ(←!!)。

いや、これじゃただの言いがかりだな(笑)。もうちょっと説明しますか(汗)。

コンピューター文化の使い方」の中で室謙二氏がイリイチに彼の母語について尋ねたところ「ない」という答えをされたというエピソードが出てきます。こんな感じ↓。

かれの理論によれば、一人の人格が一つの言語を家庭内でしゃべってれば、その人への愛着でマザータングができる。で、かれはドイツ文化圏だったから普通はドイツ語でしゃべってたけど、お母さんはほとんどイタリア語で、けんかするときだけ英語になったとか、そんなふうだったらしい。そうすると人格と言語がうまく結びつかないでしょう。そういう抽象的な言語世界で育ったから俺には母語はない、というような話からはじまって、そのうちかれは漢字文化を批判しだした。日本人や中国人は漢字という記号メタファーに頼りすぎると。つまりかれは記号の抽象化のはてに真実があるということをやっぱり信じてるわけよね。(p.29)

まあ、「母語はない」という状態が存在し得るかどうかは別にして、少なくともイリイチが「母語」を特別なものと考えていないことは確かであるようです。で、イリイチがそう考えている際に依拠しているものは、何か極限まで抽象化された普遍記号(普遍言語)への信仰だ、と室氏はみているわけです。

後半の漢字云々の話は例によって例のごとく、漢字を知らないヒトがよくやる勘違いですけどね。何か絵文字みたいなものだと誤解しちゃってるんでしょうな。

うーんと、ですね、普遍記号への憧憬ってこれもまた母語というか母的狂気とは別の種類の狂気だと私は思います。

母語を軽々と捨てたり、その価値を無視してみせたりする人は、母語が纏う狂気からは一見自由になっているように見えるけど、実際のところは別種の狂気、普遍性への狂気に捕われているだけなんじゃねーの?ってことが言いたい。マルチリンガルになれるのは羨ましいけどさ。

イリイチもレヴィナスもその意味では同じく狂ってるともいえるのじゃないかと。で、私は狂気を自覚して抑え付けているヒトの書いたもの、表現したものにはグッとくるんだけど、堂々と狂気を全開しているヒトを見ると引いちゃうんだよねー、って感じかな。

なんかさー、草間彌生さんなんかが自身の狂気と闘い続けてさ、それを抑え込んだ先に到達したポップ感みたいなのはなんかいいよねーグッとくるよねーとか思うんだけど、DOB君のヒトとかさー、引いちゃうんだよねー、と言いたい。

なんかイシノスキーさんとは関係ない話になっちゃったけど、そんな感じで。

あ、でも石ノ助→イシノスケ→イシノスキーというところに私は何か光明を見るのだけど(←ちょっとグッときた)ブログとはいえあんまり無責任なことも書けないのでアレですが。
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[ 2006/05/12 00:00 ] ニュース | TB(0) | コメント(-)
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