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批判したい相手をまず擁護しなくてはならないはめに陥ることが多いんだけど 

世渡り下手過ぎってことですか?

このあたりのネタからは全面撤退の予定だったので静観してたんですけど、やっぱりヒトコト言いたい。言わないと気持ち悪い。

ええと、唐突ですけどこちらのコメント欄に斬り込んでみますか...。とりあえず記事本文はスルーしときます。


あちこち飛ぶと面倒なのでCommented by jayster at 2005-11-10 13:31にのみ言及しますね。

ソーカルに対して私が批判的なのは、第一に、人文社会科学のこうした試みを、現代という歴史の一点における「理系VS文系」の闘いへと矮小化したこと。第二に、人文社会科学が自然科学の基盤を揺るがそうとしたのは少なくとも人文社会科学自体の学問的実践の一環としてであったのに、ソーカルは自然科学の実践とは無関係なパロディを通してそれに応じたこと。この二点において、私はソーカルのやったことを否定的に捉えています。(だからといってソーカルのやったことが無意味だったというつもりはなく、それは人文社会科学の内側からは提起されにくい問題を明るみに出したとは思います。)

ネット上にあるソーカル事件についての記述をみてもこういう風には言えないと思うのですよね。「『理系VS文系』の闘いへと矮小化」したのは、つまりこれを「サイエンス・ウォーズ」と呼んで矮小化したのはソーカルたちではなくて、カルスタ側じゃないんですかね。ソーカルはこう書いてます。

「サイエンス・ウォーズ」という言葉を最初に使ったのは、ソーシャル・テクストの共同編集者のアンドリュー・ロスのようだ。「サイエンス・ウォーズこそ、聖なるカルチャー・ウォーズにおける自軍の勝利に勢いを得た保守派がしかけた第二の闘いである。大衆の信頼の失墜と、公共の財源からの資金援助低下の言い逃れを求めて、保守的な科学者たちが(新たなる)社会の敵 --- 左翼、フェミニスト、マルチカルチャリスト --- に対する反動的攻撃(バックラッシュ)に加勢したのだ。」というのが、ロスの説明である。

このソーカルの指摘に対する有効な反証があるんでしょうか。無いのならソーカルへの批判の第一点は根拠のない難癖、極端なことをいえば被害者を加害者呼ばわりしている...ってことになりませんか?

第二の点ですけど、これについてもどうでしょう。「人文社会科学が自然科学の基盤を揺るがそうとしたのは少なくとも人文社会科学自体の学問的実践の一環としてであった」とあるのですけど、根拠を妄想で捏造した(そして間違いだらけの自然科学風比喩で誤摩化した)論述を「学問的実践の一環」なんて胸を張っていえるのかなあ?と思います。

「知」の欺瞞」で言及されている人々のうち、少なくともイリガライとラトゥールは私が神なら(←!)即座に生存の許可を取り消したいくらいのひどさだと思うのですけど。その追随者も一緒にして。(個人的にはクリスティヴァとドゥルーズは許してあげて...とは思いますけど)

上で引用したネット上の文章でソーカルがラトゥールについて言及したものにこうあります。長い上に引用の中に引用が入っていて見難いのですけど。

さらにラトゥールは物理において「座標系」という言葉が何を意味しているのかが理解できず、それを記号論の「行為者」と混同してしまった。そのために、彼は、相対性理論では二つの座標系の間の変換を扱うことはできず、少なくとも三つの座標系が必要だと主張する。

もしも座標系が一つしか、あるいは、二つしかなければ、解決策はない。・・・アインシュタインの解は、三人の人物=行為者を用いることである。一人は列車の中にいて、一人は線路脇にいる。そして、三人目は著者[発話者]ないしはその代理人で、あとの二人が送り返してきたコード化された観察結果を重ね合わせようとするのである。

これに加えて、ラトゥールは相対性理論では異なった観測者の(相対的な運動ではなく)相対的な位置に関する問題を扱うという考えをもってしまったようだ。(もちろん、「観測者」という言い方そのものが誤解を生みやすいのだ。これは相対論の説明のための方便であって、理論の構成要素ではない。)ラトゥールによる相対性理論の意味の総括をみておこう。

[特殊相対性理論と一般相対性理論という]二つの相対論を受け入れるなら、より多くのより特権性の低い座標系を利用すること、還元すること、集積すること、そして、組み合わせることが可能であり、観測者を無限大(宇宙)と無限小(電子)の中のもう少し多くの場所に派遣することができ、そして、彼らが送り返してきた情報は理解可能になる。彼[アインシュタイン]の本のタイトルは、「長距離科学旅行者を呼び戻すための新しい手引き」としてもよかったのである。

この話に私がこれ以上深入りする必要はない。この論文集に収められた論文で、ハス教授が相対論についてのラトゥールの混乱を詳しく冷静に分析している。要するに、ラトゥールは、今日では優秀な大学の一年生がカリキュラムの一環として学んでいる理論に関して、四十ページにも及ぶ笑える間違いを書き並べ、Social Studies of Science 誌はそれを価値ある学術的貢献とみなしたということだ。

これをどうやって擁護するんですか?と問いたい。「「知」の欺瞞」でソーカルたちがこれについては言及していますし、この話はパロディ論文にも載っています。「相対性理論では二つの座標系の間の変換を扱うことはできず、少なくとも三つの座標系が必要だと主張」して自分で勝手に(相対性理論とは関係ない妄想から)特権的第三の視点を導入しておいて、「より多くのより特権性の低い座標系を利用すること」云々の必要性を高らかにうたいあげているわけですけど、これを書いた人(要するにラトゥールですけど)や査読した人は「学問的実践」をやっていたことになるんですかね。

私は人文科学的な意味でも自然科学的な意味でも絶対に「ならない」と思います。こういう人間を排除する自浄能力がないなら、そんな学問領域(と称するもの)が仮にあったとしても、それは学問とは別の何かなのではないでしょうか。

一応念のために言っておきますと、ラトゥールよりイリガライとそのシンパの方が数段酷いです。「「知」の欺瞞」には「こんな仲間(=フェミニズム数学教育者DamarinやHayles)がいるようでは、フェミニズム運動に敵などほとんど必要ない」と書いてありますけど、これでもかなり控えめな叙述だと思います。

あと、コメント欄の以下の点についても異論があります。

しかし、どうも自然科学者のほうが人文科学者よりも「ここは僕の村」「そっちは君の村」的区別を強く意識していたりノ学問・自分・他者の関係のとり方が違うように感じます。

これについては「「知」の欺瞞」では真逆のことを指摘しています。「はじめに」の「6誰に批判する資格があるか?」にその指摘はありますが、本文じゃなくてその注(12)にあるチョムスキーの発言を孫引きしておきますね。

 私は自分の研究活動の中で、いろんな分野に関わってきました。たとえば、数理言語学の仕事をしましたが、数学の本職の資格があるわけじゃない。数学は完全に独学だし、それもちゃんとやったというほどでもありません。それでも、何度も大学の数学セミナーやコロキウムに呼ばれて数理言語学について話してきました。だれも私がこのテーマについて話す資格があるかとか聞きませんでしたよ。数学者は誰も気にしてません。彼らが知りたいのは私が話すことなのであって、私が数学の学位をもっているかとか、このテーマに関して進んだ講義を取ったかとか聞いて、私がしゃべる権利に文句をつけた人はいませんでした。こんなことは考えもしなかったでしょうね。知りたいのは、私が正しいか誤ってるか、この問題は面白いのかどうか、もっとよいアプローチが可能かどうか、あくまで話の内容が議論になるのであって、私がそれを議論する権利じゃない。
 ところが、社会問題や、米国の外交政策、たとえばヴェトナムや中東とかに関する議論になると、こういうことが相も変わらず問題にされるんです、それもかなり毒を含んでですね。(略)だいたい分野の知的な中身が濃いほど、免状への関心が薄れ、内容についての関心が高まるといっていいでしょう。

一応引用元は「Language and Responsibility」らしいですけど。チョムスキーの言っていることをそのまま受け取るわけにはいきませんが、(特に合理性と関係ない)流儀とか作法とか資格を最重要に考えて要求するようなものは、学問とはまた違った性質のものなんじゃないかな、と私は思います。例えば「アイデンティティがスタイルとイデオロギーにこそあるようなもの」は学問というよりは茶道とか生け花とかのナントカ流と近いのではないかと。

なんかダラダラ書いてきたのでアレですけど、一応まとめますね。

ソーカルの批判が一番クリティカルであるはずの連中は、それがあんまりにも致命的なのでこの指摘を厚顔無恥にも無視しているのだと思います。注の245にこうあります。

本書への反応について必要以上に悲観的になるつもりはないが、裸の王様の物語の最後は、「そして、侍従たちは、ありもしない裳裾をささげたまま、行進を続けたのでした。」となっている。

おそらくこういう反応の仕方をするしかないのだと思います。

一方で、特に手ひどいダメージを受けていないはずのデリダなどがその死に際してニューヨークタイムズのバカ記者にナメたことを書かれたりしてしまうトバッチリを受けてしまうわけです。もう引退してしまったブロガーですが「むなぐるま」さんの記事から引用しますね。「New York Times のデリダ訃報に抗議殺到」というものです。

まず、脱構築が「ファッショナブルで、滑りやすいフランスの哲学」と括ってしまう筆者の度胸にも感嘆してしまうのだが、その上に「脱構築」を理解できないことを少しも恥じずに、「脱構築が誤解されて続けているのは、きちんと定義しないデリダのせい」と言い切ってしまっている。いや、確かに脱構築は一言では定義できないですよ。西洋哲学を読破している必要はないが、多少哲学史を理解していて、哲学のテクストを丁寧に読む根気がなければ。ここに引用されている、「デリダを理解するという重荷から解放されるからというだけで、脱構築の死の宣告を願っている人は多い」という言葉は、まさにこの著者にあてはまると言っても良い。

「むなぐるま」さんは上記引用のようにバカ記者の記事に反論してます。この記者はたぶん「「知」の欺瞞」の内容を表層的に知っていて、こんなことを書いたのだと思います。

こういう意味ではWikipediaに書いてあるように哲学や現代思想は(少なくともアメリカでは)いわれのない攻撃や嘲笑を受けやすくなったという意味ではダメージを受けていて、そしてうまく立ち直れていないとは言えるかもしれません。

(などと書いてみましたが...ホントはソーカルたちがサピア=ウォーフ仮説を否定している内容の参考文献としてピンカーの「言語を生みだす本能」をあげていることとかをムチャクソに批判したかったんだけどなあ...全然関係ないこと書いてる...ソーカルに反論する立場なのに何やってんだろう、オイラ...)
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[ 2005/11/13 21:05 ] 学問・資格 | TB(0) | コメント(-)
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